フィンセント・ファン・ゴッホ
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Vincent van Gogh(1853−90)
オランダ   後期印象派
オランダのプロテスタントの牧師の息子であった。ゴッホ自身も信仰心が厚かった。

伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。

その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。

オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことアカデミックなことを勉強しなくてはならない。

落胆したゴッホはブリュッセルの副音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。

3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする、あまりにも行き過ぎた熱意のため解任。

ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。

ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい、というゴッホは、幹部と決裂し、ハーグ出て画家を目指すことになる。

ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。

キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。

パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。

大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。

オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。

そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。

1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。

1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。

1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であった。

1881〜1888 2月まで   |  アルル時代 (1888年2月〜1889年5月)

サン・レミ時代(1889年 5月〜90年 5月) |オーヴェール時代(1890年 5月〜7月)

1881年4月〜12月(エッテンの時代)
 農民を題材に絵画を描き始めた。

静物(キャベツ、木靴など)
1881  34.5 x 55 cm   ファン・ゴッホ美術館  アムステルダム

1881年12月〜1883年9月 (ハーグ時代)
 本格的に画業を始める。マウフェに師事していた時代。 娼婦シーンと同棲。

編み物をする女性
1881  62.5 x 47.5 cm   クロラーミュラー美術館  オランダ

編み物をするスヘフェーニンゲンの女性
1881

スヘフェーニンゲンの浜辺
1882  アムステルダム市立美術館

森の中の少女
1882

ドレンテ時代 :1883年9月から11月

畑仕事をする2人の農婦
1883   27 x 35.5 cm  ファン・ゴッホ美術館 アムステルダム

1883年12月〜1885年11月(ヌエネン時代)
 独自の道を探究し始める。代表作に「ジャガイモを食べる人たち」があるが、暗い色調の作品が多い。

ヌエネンの聖堂
1884  41 x 32 cm   ファン・ゴッホ美術館  アムステルダム

古い塔
1884  18.88 x 21.63 cm   ビュルレ・コレクション、チューリッヒ 、スイス

夕暮れのポプラ並木
1884  ファン・ゴッホ美術館

ポプラの小道
1884 Pencil and ink on wove paper  54 x 39 cm  ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)

ジャガイモを植える農夫 
1884  66 x 149 cm  クレラー=ミュラー美術館  オッテルロー  オランダ

ヌエネンの墓地の塔
1885    63 x 79 cm  ファン・ゴッホ美術館  アムステルダム

ジャガイモを食べる人たち
1885  Oil on canvas、82 x 114 cm  ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム
生涯で比較的安定していた時期の作品。

農民の生活を畑の土とともに感じられるような絵を描きたいというゴッホは、この作品で、わざと粗削りな筆使いで描いた。



1886 Oil on canvas 37.5 x 45.5 cm ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム

聖書のある静物
1885, oil on canvas、ファン・ゴッホ国立美術館、アムステルダム
聖書右ページは「イザヤ書」

閉じた本はエミール・ゾラ「生きる喜び」の書き込み

タバコをくわえた頭蓋骨
1885  32.5 x 24 cm   ファン・ゴッホ美術館  アムステルダム

1886年3月〜1888年2月 (パリ時代)
 弟テオを頼ってパリに出てきた。印象派や日本の浮世絵に影響を受ける。

暗色のフェルト帽をかぶった自画像
1886 Oil on canvas  41.5 x 32.5 cm  ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム

ムーラン・ド・ラ・ギャレット
1886  クレラー=ミュラー美術館

パリの屋根
1886  54 x 72 cm   ファン・ゴッホ美術館  アムステルダム

モンマルトルの家庭菜園
1887  96 x 120 cm  ゴッホ美術館 アムステルダム

モンマルトルの家庭菜園
1887  ゴッホ美術館 アムステルダム

日本趣味(広重)
1887  55 x 46 cm  ファン・ゴッホ美術館

日本趣味(花魁、渓斎英泉)
1887   105.5 x 60.5 cm   ファン・ゴッホ美術館

タンギー爺さん
1887-88  Oil on canvas 92 x 75 cm  ロダン美術館  パリ
ゴッホが弟と一緒に住んでいたアパルトマンのそばに、タンギー爺さんのお店があった。そこは前衛画家たちの溜まり場でもあった。

画材を売っていたタンギーは、貧乏な学生に作品と交換で画材を与えたので、かなりな量の作品を所蔵していた。

タンギーは、下層階級の出身で、左翼的な信念を持ち、パリ・コミューンに参加した。そのため、2年間パリから追放、懲役に服していた。

パリに戻ってきてからは、郊外で制作している若い画家に絵の具を売って歩いて生活していた。カミーユ・ピサロの援助によって自分の店を持つことができた。

この店で、みんなは他の画家の作品を見ることができたので、自然と様式や技法などの意見交換の場にもなっていった。

そこで生まれる同志的な雰囲気は、コミューンを夢見ていたゴッホの憧れと一致するところがあった。


画家の自画像
1887-88 Oil on canvas 65 x 50.5 cm  ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム

麦わら帽子をかぶった自画像
1887 夏  Oil on cardboard  41 x 33 cm  ァン・ゴッホ美術館、アムステルダム

フェルト帽をかぶった自画像
1887-88 冬  Oil on canvas、44 x 37.5 cm  ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム

イタリアの女(アゴスティーン・セガトーリの肖像)
1887-88  81 x 60 cm   オルセー美術館  パリ

1881〜1888 2月まで   |  アルル時代 (1888年2月〜1889年5月)

サン・レミ時代(1889年 5月〜90年 5月) |オーヴェール時代(1890年 5月〜7月)



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