| ウージェーヌ・ドラクロワ |
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| Fedinand Victor Eugene Delacroix (1798-1863) |
| フランス ロマン派 |
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ドラクロワは近代絵画発展上、本質的で革新的な絵画を描いた。
ルネサンス以来、新たな色彩感は、すでに、18世紀のワトーが打ち出していた。ワトーの時代のロココ調の絵画は、宮廷の広間を飾り、王朝の華やかさを表すものであった。
しかし、この18世紀末に勃発したフランス革命により、王朝の夢は、一夜にして崩れ去った。
絵画もまた、ナポレオン皇帝の出現により、古典派へと復古し、新古典主義の風潮に包まれていく。
19世紀初頭は、ナポレオンの文化政策を背景に、宮廷首席画家ダヴィッドが華々しく活躍した。ナポレオン皇帝失脚の後も、ダヴィッドからアングルへと、古典主義は受け継がれ、アカデミズムとして伝承され、その優美で精緻な絵画様式は、留まることがなかった。
こうして、18世紀に芽吹いた色彩表現は、時と共に、埋没していった。
ダヴィッドが追放された後を継いだグロは、この古典派的な規格に満足できなかった。グロは生粋の宮廷画家であったが、古典主義よりも、もっと動的で、感情的なものが描きたかった。
おのずと、グロの作品には、そうした傾向がにじみ出てきたが、ダヴィッドは追放先のベルギーのブリュッセルから、グロに手紙を送り、「古典主義を乱してはならぬ」と責めた。
グロは、この古典主義と、内面から噴出すロマン派的な傾向の狭間で、苦しみ、自ら命を絶つのである。グロは時代に恵まれず、時代に押しつぶされるかのように、亡くなったが、その死は、暗示的である。
グロの次の世代で、古典派を学んだにもかかわらず、一歩、力強く前進したのが、ジェリコーであった。ロマン派の台頭である。
ドラクロワは、すでに、古典派からロマン派へと移行しつつあった時期に、グロの後輩として到来したのである。
新しく芽生えてきたロマン派を発展させていったのが、ドラクロワだったのである。
ドラクロワの発展させたロマン派は、古典主義の安定した構図ではなく、動的で、擬音的、曲線的で、感性の波動を伝えようと試み、色彩をもって表現しようとするものであった。
ロマン派といっても、フランスのロマン派は、ドイツのように、幻想的で空想的なものではない。あくまでも、その根底には、リアリズムが存在し、写実性のあるものである。
ドラクロワの時代でさえ、まだまだ、古典派の圧力が強かった。ジェリコーは若くして亡くなり、ドラクロワは孤軍奮闘しなければならなかった。
しかし、ドラクロワは自己を曲げずに、その芸術的信念を通した。彼の革新の矢は、古典派に向けられただけではない。個性の宣言を重視する、近代美術にも向けられたのである。
個性主義と自由主義。近代絵画に欠かせない基盤を築いたのが、ドラクロワだったのである。
ドラクロワは、1798年4月26日、パリ近くのシャラントン・サン・モーリスで生まれた。父はナポレオンの時代の大使シャルル・ドラクロワ。母はルイ16世に仕えた宮廷家具製造家の娘である。
ドラクロワの誕生に関しては、常に言われるのが、実の父親は世界的名声を保持していた、大外交官タレーランではないか、ということである。この説は、無視できないほど、今日では有力である。
幼い頃から、音感に敏感で、文学に対しても、情熱的であった。
画才にも優れ、叔父である画家リーズネルは、いち早くそれを見抜き、17歳のとき、リセを退学させ、当時、有名だった古典派画家ゲランのアトリエへ連れて行った。
このアトリエで、先輩のジェリコーと知り合うのである。
18歳のとき、官立美術学校に入学した。しかし、ドラクロワの師匠はルーブル美術館であった。 |
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| 地獄のダンテとヴェルギリウス |
| 1822 Oil on canvas 189 x 242 cm Musee du Louvre, Paris |
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1822年、24歳のときの作品である。この年のサロンに、初めて入選した作品でもある。
ダンテの『神曲』の「地獄扁(第八歌)」から主題を取っている。
地獄の町ディテの城壁の周りにある湖を、ダンテとヴェルギリウスが渡るところである。亡霊たちが、小船に乗り込もうとして、あえいでいる。壮烈な場面である。
作品は賛否両論分かれた。ある批評家は「ごてごてした下手くそな絵」と言い、ある批評家は「詩的な想像力を持っていて、野蛮で激しいが、魅力的」だと言った。
このような、劇的な表現は当時は奇異であった。古典派の絵画では考えも及ばぬ情景を描いたのである。
このような作品がなぜ入選できたか。
それは、当時、審査員であったグロが、強力に推薦したからである。グロは自らが、このような劇的な作品を描きたかったが、古典派の師匠ダヴィッドに抑えられたため、描けなかった。
グロは、自らの無念を抱き、若き無名の画家をかばった。ドラクロワは、こうして、世にでたのである。 |
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| 墓場の少女 |
| 1824 Oil on canvas 66 x 54 cm ルーヴル美術館 |
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| キオス島の虐殺 |
| 1824. Oil on canvas. Louvre, Paris, France |
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ドラクロワの絵では、コンスタブルの明るい、動感のある自然表現、色彩の影響が色濃い。
イギリス絵画に興味を持った翌年、発表したのが、「キオス島の虐殺」である。
この年、1824年1月、ジェリコーが落馬が原因でこの世を去った。ドラクロワを理解してくれた数少ない先輩の一人である。ジェリコーの『メデュース号の筏』で、進んでモデルを努めたのも、ドラクロワであった。彼は悲嘆に暮れた。
これ以後、ドラクロワは、全く孤独の道を歩まざるを得なくなる。
幸いなことに、この『キオス島の虐殺』が、サロンに入選した。
ちょうど、このサロンには、アングルの『ルイ16世の誓い』も出品された。
古典派とロマン派が並んだのである。アングルの作品は賞賛を浴びた。古典派の勢いは衰えてはいなかったのである。
ドラクロワの作品が入選できたのは、何かの奇跡かもしれない。なぜなら、あのグロでさえ、今回のドラクロワの作品には賛成しなかったのであるから。
『キオス島の虐殺』とは、1820年に始まったトルコ軍のギリシャ侵攻を描いたものである。
15世紀以来、ギリシャは、トルコの圧制下にあった。そして、19世紀の初め、ギリシャ人の解放運動が始まったのである。
1821年、ギリシャ中で、暴動が起こった。
対するトルコ政府は、ギリシャ人を制圧するため、大虐殺を始めた。
キオス島では、9,8000人のギリシャ人が、殺され、あるいは、奴隷として売られた。残った住民は、2,000人であった。
抵抗したギリシャ島民は、今は力尽き果て、虚しく横たわる。トルコ軍は猛り狂い、女を連れ去ろうと、馬上に乗せている。
イギリスの詩人バイロンは、私財を投げ打って、ギリシャ救援を訴えた。『ミネルヴァの呪い』という詩を書き、「アテナの女神は泣いている。アテナの女神のものは、アテナに返せ」と訴えた。ドラクロワもこれに応えたのである。
時代的にも、古代ギリシャの回顧傾向があった。
古典派一色の当時、このような、人間的な憤激、激情を絵に描く、など想像もしなかった。ドラクロワの作品は、異端であった。
作品は「絵画の虐殺だ」、「ドラクロワはパリを焼き尽くす男だ」と、あらゆる非難があつまった。
この年のサロンは、古典派とロマン派の対立という点からも、歴史的であった。 |
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| ミソロンギの廃墟に立つ瀕死のギリシャ |
| 1826, oil on canvas, 209x147cm ボルドー美術館 |
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ギリシャのミソロンギは、小さいが、戦略的には重要な都市であった。そのミソロンギがトルコ政府に反対するギリシャ人によって、占領された。
このように、国の至るところで起こる暴動を抑えきないトルコはエジプト軍の支援を要請した。
エジプト軍の指揮官は、1825年5月、ミソロンギを包囲した。対する、ミソロンギは、約一年間、エジプトの猛攻激に抵抗した。
しかし、1826年4月、トルコとエジプトは、ついにミソロンギを征服した。抵抗者たちはすべて、処刑された。
この二度目の包囲の最中、1824年4月19日、イギリスの詩人バイロンが死んだ。バイロンは1821年の独立戦争勃発に際し、私設の軍隊をひきいてアルゴストリへと船出していたのである。ドラクロワはバイロンを崇拝していた。
1826年、4月22日、この町はトルコ軍の手に落ちた。3万5千の軍勢に対し、4千の守備兵がいるのみであった。
この作品では、古代ギリシャを、若く美しい女性に象徴させ、滅び去った古代ギリシャの廃墟の上に立たせている。過去の悲運を訴え、新しい芽生えを噴出させようとしている。 |
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| ララの死 |
1820年代中〜末頃 Watercolor with some bodycolor and some underdrawing
in graphite
ポール・ゲッティ美術館 ロサンゼルス |
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1814年に発表された、バイロンの詩 "Lara" からの主題。
Laraはスペインの大君主で、外国生まれの給仕Kaled を伴い、追放から帰ってくる。
Lara は、Otho に抑圧されていた、農民の反乱のリーダーとなった。Otho は敵対している男爵である。
圧倒的な力の前で、最後の戦いで、Lara は矢を受け、死に至る傷を受けた。彼は,
Kaled の手厚い介護を受けながら死んだ。
Kaled は、最後に分かるのだが、変装した若い乙女であった。Lara に恋をしていたのである。
死んだヒーローの動かない体と、Kaled の絶望のポーズが、対照的である。
ドラクロアの色彩画家としての技量が分かる作品。 |
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| サルダナパールの死 |
| 1827 Oil on canvas 392 x 496 cm ルーヴル美術館 パリ |
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バイロンの詩を主題にとっている。
サルダナパールはアッシリアの王で、快楽主義者で、栄華な生涯を送った専制君主である。
その目に余る圧制に対し、ついに反乱が起こる。
反乱軍は宮廷に火をつけ、サルダナパール王の寝室にも近づいてきている。
王は、自分が死ぬときは、自分の持ち物すべてとともに逝く、と明言していた。
部下が、王の窮にいた女性たちを集め、一人、ひとり殺していく。
王はその様子を、寝台に寝そべって、何事もないかのように、冷ややかに眺めている。自分の死すら、感じない様子である。
ドラクロワはこの絵で、色彩感を盛り上げてきた。
ある日、ルーブル宮の傍を歩いていたら、金色に輝く馬車が通過ぎた。その瞬間、紫を感じたという。黄色と紫の対比関係を感じとったのである。
これが、色彩画家として、ドラクロワに新しい視点を与えた。そして、後の印象派画家が継承する感覚でもある。
『サルダナパールの死』は、酷評された。
ドラクロワが孤独の戦いを強いられているとき、礼賛するものがいた。若い詩人ボードレールである。詩集『悪の華』でセンセーションを巻き起こした詩人である。 |
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| 民衆を導く自由の女神 |
| 1830 Oil on canvas 260 x 325 cm ルーヴル美術館 |
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ドラクロアはこの絵を描くことで、1830年の7月革命に応えた。
シャルル10世(1824−30)の絶対主義に抵抗した民衆は、民主主義の改革を推し進めた。その結果、ルイ・フリップスが王に選ばれた。しかし、彼の権力は制限されたものであった。
フランスは、ブルジョア君主制となった。
ドラクロアは、将官であった弟に手紙を書いた。
「私は祖国のために、戦かって、勝利を得たわけではない。しかし、すくなくとも、支持の表明として、絵を描くことができる」
自由の女神の左側、シルクハットをかぶっている男が、ドラクロア自身である。右のピストルを手に持つ少年は、おそらく、ユゴーの『レ・ミゼラブル』のなかに出てくる浮浪児ガブロッシュではないか。
ルイ・フィリップ王は3,000フランでこの絵を買い上げたが、一度も展示しなかった。
新古典主義がデッサンを重視していたのに対し、色彩を追求したドラクロワの秀作である。
題名は正しくは、「民衆を導く自由」であるが、日本語はなぜか、「自由の女神」である。日本人の「民主主義における自由」という概念が希薄な表れではないだろうか。 |
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| モロッコのユダヤの女 |
| 1832 Watercolor over lead pencil on beige pape ルーヴル美術館 |
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| アルジェの女たち |
| 1834 Oil on canvas 180 x 229 cm ルーヴル美術館 |
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| 自画像 |
| 1837 Oil on canvas 65 x 54.5 cm |
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| ジョルジュ・サンドの肖像 |
| 1838. Oil on canvas. 79 x 57 cm オードロップゴー美術館 コペンハーゲン デンマーク |
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フランスの小説家。パリに生まれ、100以上の作品を書いた。その中に、"Indiana",
"Valentine","Consuelo"などがある。1836−49年、ショパンが亡くなるまで、恋人であった。
この肖像はショパンの肖像の背景に描かれたものである。なぜか今では、切り離され、別々の場所に所蔵されている。 |
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| ショパン |
| 1838 Oil on canvas, 45,7 x 37,5 cm ルーヴル美術館 |
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ポーランドの作曲家で、ピアニストのショパン。ワルシャワ近郊で生まれた。1831年、パリに来てから有名になった。ジョルジュ・サンドと知り合い、1849
年、結核で亡くなるまで彼女とともにいた。 |
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| わが子を殺そうとしているメディア |
| 1838 Oil on canvas, 260 x 165 cm ルーヴル美術館 |
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メディアは、コルキスの王の娘である。伯母にあたる魔法使いキルケから、魔法を教わった。
一方、テッサリアの王家の一人イアソンは、王位を継ぐための条件である、金の羊毛を求めてコルキスにやって来た。
メディアはイアソンと恋に落ちた。
メディアは、イアソンが金の羊毛を手に入れるために、魔法を使い手助けした。
後に、イアソンとメディアは、二人の子どもを持った。しかし、イアソンはギリシャに帰ると、父を苦しめた叔父を殺し、メディアとともに、コリントスへ逃れた。
コリントスの王は、イアソンを娘婿に望んだ。イアソンはメディアと二人の子どもを捨てて、コリントス王の娘と婚約した。
怒ったメディアは、復讐のために、二人の子どもを殺し、彼の婚約者を焼き殺した。
メディアのイメージは小説や絵画の主題として、人気がある。それぞれの作品が、それぞれ、違うイメージで書いている。悪魔のような魔女として書くものもいれば、裏切られた不幸な女性として書かれるばあいもある。 |
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| ハムレットと2人の墓穴掘り人夫 |
| 1839 Oil on canvas, 29,5 x 36 cm ルーヴル美術館 |
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シェイクスピア「ハムレット」より |
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| 十字軍のコンスタンティノープル占領 |
| 1840 Oil on canvas, 410 x 498 cm ルーヴル美術館 |
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西側のキリスト教会は、東方正教会を信用していなかった。東方正教会を罰し、服従させるために、西側は第4次十字軍をビザンチンの首都コンスターチノープルに送り、攻撃した。1204年、ビザンチンは降伏した。
この作品は、フランスの総司令官ボードアン伯が、軍馬に乗って入場する場面である。
勝利者の前には、降伏を叫び片手を上げる老人、仰向けになった女の屍、子を抱いて慈悲を乞うトルコ人。
血なまぐさい光景が広がる。
中景にはローマ風の建物。その後方にはボスフォロスの海が青く広がり、空には暗雲がたなびく。。
ドラクロワ独特の安定感のある構図である。 |
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| ドン・ジュアンの難破 |
| 1840 Oil on canvas, 135 x 196 cm ルーヴル美術館 |
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バイロンの風刺叙事詩ドン・ジュアン。スペインの貴族ドン・ジュアンは、スキャンダルのため、生まれ故郷のセビリャを去らなくてはならなくなった。ドン・ジュアンの長い冒険の船旅が始まる。しかし、そのスタートは、難破で始まった。
ドラクロワは、難破のすさまじさよりも、その悲劇の起こる直前の、人間の顔をテーマに描いている。不幸の予感の表現である。 |
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| ピエタ |
| 1850 Oil on canvas, 35 x 27 cm Nasjonalgalleriet, Oslo |
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| Heliodorus Driven from the Temple |
| 1854-61 Oil and wax on plaster 751 x 485 cm Saint-Sulpice, Paris |
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| 山間部でのアラブ人たちの小競り合い |
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死去の数ヶ月前に完成させた作品。
モロッコの収税役人と地方の反逆部族との戦いを描いたと思われる。
ドラクロワの筆使いは、切れ切れとしていて、同時代の古典主義画家アングルとは、極端に対比している。
戦いの、実際の音を擬音化したようなタッチで絵具が塗られている。
視線は、落馬する男の馬具の鮮やかな赤で始まり、倒れた男の身体へと向けられ、その左手の先の、膝を付いてライフルをかまえている男へと導かれる。
そして、そのライフルの先、馬に乗って掛けていく男がいて、対角線をなす遠くへと向けられる。動線がきれいにつながっているのである。
ドラクロアの絵にある、彼の内面的な安定が表れている代表作である。 |
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