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バロックとフランス古典主義   17世紀  1600-1700

名画とか名作というものは、残酷である。その登場のあと、ゆうに100年あるいは200年の間、それを越えるものが登場できないのである。名画、名作は後世に暴力を振るう。

レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ以降、画家たちはその模倣に終始するしかない。彼ら以上のものを描くのは並大抵のことではないのである。


実際、17世紀バロック美術は、19世紀までの200年間、後期ルネッサンス古典主義と呼ばれ、その範疇でしかなかった。しかし、その様な中で、バロックの画家たちは、新しいスタイルを生み出していったのである。バロック美術は、19世紀後半になって、ようやく見なおされてきたのである。

バロックの語源はポルトガル語で、「歪んだ真珠」とか「不規則な真珠」という意味である。パロックの大げさな表現や、劇場でのハイライトシーンのような感情的な表現が多いことからくるらしい。

バロック美術は、一言ではくくれないほど多様である。それぞれの国によって、特徴がある。これから、少しずつ例をあげて、説明していくことにする。

イタリア
ルネッサンスの時代は、イタリアのフィレンツェとヴェニスが、絵画の世界の中心であった。しかし、17世紀バロックの時代はローマが中心となる。

これは16世紀、プロテスタントの宗教改革の後、カトリック教会が立て直しを図った対抗宗教改革の成功による。

この政策でカトリック教皇はローマの再建を図り、16世紀末に聖堂建築、都市整備が行われた。美術家の仕事がたくさんあったのである。


イタリアに住む芸術家たちは、カトリック教徒ととして、教会の権威を支持し、聖書を現実に則し、分かりやすく人々に示すことが求められた。

マニエリスムの複雑怪奇さと、盛期ルネサンスの荘厳さを併せ持つ、この新しい様式は19世紀まで、バロックと呼ばれなかった。単にラファエロにつながる後期ルネサンスの一形態を考えられていた。

重要なのは前期リアリストのカラヴァッジョ、そしてボローニャにおいて古典的風景画の伝統を確立したアンニバーレ・カラッチである。

カラバッジョに始まる、光と影の効果を、最大限に生かした画風は、ヨーロッパに広がって行った。
 

カラバッジオ (1571/73−1610)
オラツィオ・ジェンティレスキ  (1563-1639)
アルテミジア・ジェンティレスキ  (女性)
カラッチ   (1560-1609)
アダム・エルスハイマー    (1578-1610)
ドメニキーノ    (1581-1641)
グイド・レニ (1575-1642)
グエルチーノ   (1591-1666)



 フランドル (現在のベルギー)
 16世紀後半、フランドルはスペインのフェリペ2世の圧制に反抗して、南北に分断される。

北のオランダが独立に成功したのに対して、南のフランドル(現在のベルギー)はスペイン帝国の支配下に入る。

北ヨーロッパがプロテスタント国であるのに対して、フランドルはスペインの影響で、カトリックと対抗宗教改革の影響下にあった。

フランドル美術も同様に、スペインの影響が強かった。

リュベンス   ( 1577-1640)
ヤーコブ・ヨルダーンス   (1593-1678)
ヴァン・ダイク   ( 1599-1641)

 スペイン
 17世紀のスペイン絵画は教会の影響下にあった。スペインのバロックは、宗教画が主であった。

1556年のフェリペ2世の即位から、続くハプスブルク王朝が、教会の正当性を保つために、恐るべき異端審問の検閲があり、自由に神話や裸婦を描けなかった。
異端審問とはプロテスタントを含むあらゆる異端を迫害するものであった。

スペインの異端審問は15世紀、国王フェルデナンドと女王イザベラによって始まった。プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒などが、異端者であった。ドミニコ会の修道士たちが異端者を探し出す任務にあたっていた。異端審問にかけられた者たちは、転向か、公開火刑が待っていた。

ハプスブルク王家は、スペイン帝国を保持するために、度重なる戦争を余儀なくされた。その結果、国力が弱まり、経済的に没落していく。さらには1659年のピレネー条約では、フランスに国土を割譲した。ペストも何度か大流行した。

国力は弱まっていたが、この時代にスペインは、芸術・学術の面でルネサンスを経験する。ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』はこの時代に書かれた。

リベーラ  ( 1591-1652)
ベラスケス  (1599−1660)
スルバラン   ( 1598-1664)
ムリーリョ   (1617-82)

 オランダ
17世紀のオランダは、スペインからの独立を果たし、東インド会社設立に見られるように、商工業の発達で、誰もが中産階級となった。

生活に余裕がでてくると、人間は自己のアイデンティティを求め出す。王族ではなく、市民の肖像画が増えたことにも関係がある。

『個人』が存在しだすと、時代は「近代」を迎える。ヨーロッパ諸国のなかで、いちはやく市民社会を実現させたのは、オランダである。


市民社会の成立とは、『個人』の出現にほかならない。現在の日本とちょっとだけ似ているかもしれない。でもきっと今の日本のように、アイデンティティの混乱は起こらなかったのかもしれない。

絵画の分野で日本と西洋の大きな違いは肖像画にあると思う。西洋の画家は自画像を多く残している。レンブラントのように、毎年のように自画像を描いて残している画家もいる。レンブラントの自画像は注目に値する。

自分の顔を描いたところで、お金になる訳でもないのに。これは早い時期からの自我の確立が成功していたことと関係している。

日本語で自我とかアイデンティティといわれてもピンと来ないのは、日本人はいまだに近代を迎えていないのかもしれない。ただ最近日本では、「自己実現」という、少し分かりやすい言葉が出てきていることは注目に値する。


オランダの絵画は、市民の室内を飾るために描かれた。細密で、観察の鋭さが特徴である。

パトロンは市民であった。教会や貴族など、特定の顧客のために描くわけではなかったので、画家はある程度の自由はあったが、収入は不安定であることが多かった。流行なども、取り入れなければならなかった。

風景画家は、それぞれ、得意とするテーマや場所を持っていた。海の景色、田園風景、夜景、都市風景など、それぞれ専門化していた。

風俗画は、民衆の日常を、ユーモラスに、教訓的に、敬虔に描かれ、貴重な歴史資料ともなっている。

静物画は、17世紀、初めて、独立したジャンルとなった。静物画は15・6世紀には、宗教画や風俗画の中に描かれ、象徴的な意味を表していた。17世紀になると、それが独立し、徹底した写実で描かれた。

レンブラント・ファン・レイン  (1606−69)
ヘダ ( 1597-1680)
ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム  (1606-1683/84)
ヤン・フェルメール  (1632−75)
フランス・ハルス  (1582/83−1666)
ピーテル・デ・ホーホ   ( 1629-84)
ヤン・ステーン (1626-76)
アルベルト・カイプ  ( 1620-91)
ヤーコプ・ファン・ロイスダール   ( 1628/9-82)
サロモン・ファン・ロイスダール   ( 1600-70
ヤン・ファン・ホイエン  (1596-1656)
ピーテル・サーンレダム   (1597-1665)
ヘリト・ダウ  ( 1613-75)
アールト・ファン・デル・ネール  (1603-1677)
アドリアーン・ファン・オスターデ  (1610-1685)
パウルス・ポッテル  (1625-1654)
ディルク・ハルス  1591-1656
ピーテル・エリンハ   1623-C.1682
ヤコブス・フレル 1654-1662
ヘラルト・テルボルフ  1617-1681
ハブリエル・メツー  1629-1667
トマス・デ・ケイセル  1596-1667
バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト  1613-1670


フランス  古典主義
16世紀はハプスブルク家の威圧との戦い、新教と旧教の対立する宗教戦争と、動乱の時代であった。

そんな時代を終わらせたのが、アンリ4世(在位1589-1610)である。ナントの勅令を発し、宗教戦争に決着をつけたのであった。

アンリ4世は、宰相シュリーとともに、荒廃したフランス国土を回復させ、民衆に安定を与えたのである。治世は長くはなかったが、次に続く、「偉大なる世紀」の礎を築いた。

その後、後を継いだのはルイ13世(在位1610-1643)である。しかし、まだ9歳であった。そこで、国政は母親のマリー・ド・メディシスの手に委ねられた。しかし、マリーの摂政時代は、再び、国内混乱をもたらした。貴族や議会が、これを機会に王権を制限しようとしたのである。

救世主は宰相リシュリューである。新教徒への弾圧、貴族への強攻策で、王権の強化に対外的にもフランスは地位を高めた。

1642年、この有能な宰相リシュリューが世を去り、その翌年、ルイ13世が世を去った。

次は、いよいよ、ルイ14世である。しかし、ルイ14世は、わずか5歳であった。

国政補佐は宰相マザランである。はじめは王権に対する貴族の巻き返しの乱である「フロンドの乱」などあったが、マザランはすべて、うまく乗り切った。

1662年、マザランが世を去った。そして、絶対王政の仕上げは、最初は5歳の子供だった、ルイ14世であった。自らが国政をとったのである。

17世紀はフランスにとって、「偉大なる世紀」である。

太陽王ルイ14世の絶対王政の下、政治的には、他のヨーロッパを圧倒し、芸術・文化の分野においても、フランス文化の基礎を築き上げた世紀である。


17世紀フランスは、国家統一へと足を進めていた。ここから、ベルサイユ宮殿建築へと流れていく。
 美術の分野でも、17世紀初頭はバロックの影響下であったが、17世紀中頃には、独自のフランス古典主義を確立していく。

17世紀前半、アンリ4世のころ、ローマではカラヴァッチョを中心とするバロックの嵐である。フランスは、1627年、ヴーエがイタリアから戻ってくるまでは、絵画は停滞していた。

ルイ13世の母、「マリード・メディスの生涯」の連作を描いたのは、フランスの画家ではなく、フランドルのルーベンスであった。

バロックの立役者であるイエズス会の教団活動が弱かったし、宗教戦争の痛手がかなり大きかったのが、理由である。

フランスにおいて、最も活発であったのは、ロレーヌ地方ナンシーであった。イタリアとフランドルの交通の要衝であった。ここでは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールクロード・ロランの天才を生んでいる。


1648年に創設された、絵画彫刻アカデミーは、1663年以降、王室の保護下に組み込まれた。「私は国家である」という太陽王ルイ14世の言葉の通り、芸術は「王を賛美するもの」であった。プサンの弟子であるルブランが、王立絵画彫刻家アカデミーの校長になり、古典主義を宮廷の様式にしていった。

王室の仕事は、アカデミーのメンバーでなくてはできなくなったのである。当時は、芸術家の仕事は、王室の仕事(ヴェルサイユ宮殿をはじめとする装飾事業など)が主であった。

逆にいうと、アカデミーのメンバーにならないと、仕事ない、ということである。

それは、必然的に、アカデミーの権威を高めていくことにもなる。

1667年、アカデミーでは教育制度が整えられた。アカデミーの美学が成立したのである。

当時、イタリアの劇的なバロック芸術とは違った、また、フランドルの自然主義とも違った、フランスの古典主義を決定的にしたのも、このアカデミーの美学であった。

そのままある自然ではなく、あるべき理想の自然を、合理的に、追求する。 感覚的な表現だけでは、格が低いとみなされた。それがアカデミーの美学となった。

そのアカデミーの理想追求の精神は絵画の主題によって、序列を決めていた。

神話的主題、宗教的主題、歴史画が、最も格の高い絵である。

神より低い位置にある人間の肖像画は、もっと格が低い。

風景画は、人間より自然は格が下、ということで、肖像画の下。

静物画は、無生物、ということで、一番下、という具合である。